阪神淡路大震災
今から約20年前、 1995年1月17日阪神淡路大震災は僕たちの生活を奪いました。
今でも神戸は多くの犠牲者の方々の尊い命の上で復興している段階です。
このブログをアップする前に、まずは追悼の気持ちを持って黙祷を捧げます。
阪神淡路大震災は本当に一瞬の出来事でした。いつも見慣れている風景か瓦礫の山となり、
平穏な生活を奪ったのです。
僕も前日まで普通に飲食店に勤務していましたが、その日を境に被災者の生活になりました。
しかし震災前日は友人の結婚式があり、
震災の揺れは酔い潰れてたこともあり、幸か不幸か覚えていません。
揺れが落ち着いて目が醒めると、大きな声で向こうからおかんが、
「かずき、大丈夫?」「外を見て!」「早く、早く」と言っているのが聞こえました。
僕は眠たい目を擦りながら窓から外を見てみると、
倒れたビルや建物のほこりで辺り一面真っ白になっていたのを見て、
「うわー、めっちゃ雪降ってるやん」などと、しょーもない勘違いをし、
おかんに「すっっごい雪ふってるで」と返すと、
「ちゃう、地震やん」「こっちに助けにきてー」との叫び声と、
目が慣れてきてリビングに行くと食器棚から崩れ落ちた食器やぐらすでやっと事の大きさを実感しました。
おかんの部屋に行くと、ベッドと倒れたタンスの間に挟まれていたのです。
そこから救助して、リビングに集まってきた姉と近所に住んでいたおばあちゃんの家に向いました。
おばあちゃんを助けに行く道中は、道路は波打って、
電信柱は倒れて通れない、家はぺちゃんこ、とてもこの世のものとは思えない風景でした。
おばあちゃんも無事に助けにいき、次はおかんがオーナーをやっていた、
ブティックを見にいきました。ブティックは大きなマンションの1階にあったため、
跡形もなくペシャンコになっていました。おかんは店に着くなり、
隙間から商品を必死に取り出そうとしていました。しかし商品の価値がわからない僕は、
『なんでこんな必死やねん、恥ずかしくないんかな』と手伝うこともせずにボーっと鑑賞していました。
今になっては商品の価値や自分のお店の大切さなどわかりますが19歳の僕にはピンとこなかったのです。
もちろん電車も止まっていたので、仕事にもいけないしマスターにも連絡が取れない僕はアホなことに、『やったー休みやん!』と、間違ったテンションのスイッチが入っていたのです。
仕事がなくなるということは、何にもすることがなくなるということなので、ヒマを弄ぶ毎日でした。
ボランティア活動なども一切せず、 (て、言うかボランティアの重みがわかってなかった) 毎日 ぷらぷらするだらけた生活を続けていると、段々と刺激がほしくなり、また悪さばかりをするようになっていったのです。
震災直後から少し経つと、復興作業の為の仕事が街に増えて、僕たち若者は駆り出されるのでした。
飲食店で働いてた楽しみも薄れてきて、僕はどっぷりと建築業にはまっていました。料理をするのが好きだったのですが、今思えば物をつくるのが好きな性格のようです。
建築業で働くと飲食業では考えられないほどのたくさんのお給料をもらえるので20歳の頃には飲食業で働くことなど何にも考えていませんでした。
そして20歳の夏、事件は起きたのです。