料理人の原点
小学校は西宮市にある甲子園に通っていました。
自分言うのはどうかなって感じですが、
成績は中の上
しかし運動は小児ぜんそくに悩まされていたので得意な方ではありませんでした。
前回のブログで写真をUPした母(おかん)は、
アパレルの仕事をかじっていたせいか何かと個性を出すのが好きで、
普通の小学生が普通に背負っているランドセルを持たせてもらえずに、
パッチワークのついたオシャレ的なカバンを持って登校しておりました。
小学生になると離婚したおかんが急に忙しくなり、
今までの生活は急変、
家の電気が止まるのは当たり前、
晩御飯もコロッケ一つにご飯のみのドドド貧乏な生活でした。
しょっちゅう家を留守にするおかんは、
何の置手紙もなくテーブルに1000円札だけを置いていました。
僕はこの1000円札を持って商店街に行くのが楽しくて、
学校が終わると食材を買いに商店街を走り回っていました。
部活動に明け暮れていた姉は帰るのが遅かったので、
必然的にご飯を作る担当は僕になっていました。
うちの一族の中でもおばあちゃんは喫茶店を経営していたので、
とても料理が好きで僕もおばあちゃんの真似事していました。
そんなおばあちゃんの姿で印象に残っているのが、
お肉を焼いたフライパンにお酒(たぶん赤ワインかブランデー)を振りかけて、
火柱が「ボゥ」っと上がるのがかっこよくて意味も分からず僕も肉を焼いては、
お酒を振りかけていました。
(料理を目指すことで、その行為が『フランベ』という調理技法ってことを知りました)
今になって思い返せば僕の料理人人生はそこからスタートしていたのでしょう。
小学校も3年生ぐらいになると帰宅して料理をするってことが、
ほぼ毎日のリズムになり、それが苦とも思わずむしろ楽しんでいる生活でした。
カレー・トンテキ・から揚げ・ハンバーグ・野菜炒め等、
レパートリーも様々、
1000円の限られた予算の中で僕の腕はどんどん上がったのです。
しかし高学年になってくると、
父親のいない、ましてやおかんはいつも家にいない、
そんな状況だったので怒られる怖さを知らない僕はやんちゃさ加減が増していったのです。
最初は学校をさぼって帰宅が遅くなるぐらいの感じだったにですが、
同級生のカバンにいたずらをしたり、
おかんの財布から500円を盗んでゲームセンターにいりびたったり、
喧嘩で相手を殴ってみたりとやりたい放題でした。
そんな自分勝手な態度では友達も少なくドンドン孤立していく一方でした。
友達のいない僕はよりゲームセンターやファミコンなど、
ゲームの世界にどっぷりとはまったのでした。
・・・・・・・てか、なんか暗い過去ばかりでいいのかな?
書いててなんか気持ち悪くなってきちゃった(笑)
と、今思い出せるのはここまでにしといて、
また明日楽しいエピソードを思い出すってことで終了いたします。
続きは高学年のお話しに移ります。